中高時代の成績公開―僕が講師をやっている理由【学習観・教育観】

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【話の核心に至るまで少し遠回りをします。僕の学習歴などが今の僕の学習観・教育観に大きく関係しているためです。お時間のあるときに最後までお読みいただければ幸いです】

「良い」成績「良い」学校に入学。それで何が変わるの?

中学1年生まで、勉強もスポーツも「並」程度。

ですが、高校進学を意識したことで少し勉強への向き合い方が変わり、テストの点数や成績などが大きく変化しました。

意識が変わることで、勉強の仕方や効率的な勉強方法を見直すことができ、それ以降のテストの点数も成績も一気に上がりました。

これが、中学の時の成績です。

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(※中1の時は「3」がありましたが、さすがに「2」を取った時は衝撃でしたね 笑)

ただし、部活をやったり、習い事などとしていたから、勉強だけに時間を割くことはできず、そもそも勉強が大好きになったわけではないので、ガリ勉になったわけではないのです。

勉強への向き合い方が変わったといっても、テスト前にちょこちょこっと一夜漬け程度の学習をしていたに過ぎないのです。

テスト前に部活が休みになると、放課後友だちと遊びに行ってましたし、実際の勉強はテスト1~2日前にやる程度でした。

自分で自分を「一夜漬けの鬼」などとよんでいたほどです。

それでも上のような結果が出せるようになりました。

そして、その方法はなんと高校でも通用してしまったのです。

ちなみに高校の時は部活はやっていませんでしたが、アルバイトをやり始め、多いときは週に5日位働いていました。テスト前でも前日や当日以外であれば気にせずシフトを入れていました。

お小遣い欲しさというのもありましたが、働くこと自体がけっこう楽しいものなのだと知り、ものすごくハマったという感じですね。

だから、余計に魅力的に見えない学校の勉強はどんどんしなくなっていきました。

高校1年生の時には、すでに何人かの先生に「バイトを減らしてもう少し勉強しなさい」と言われてしまうほどでした。

これは裏を返せばもう少しきちんとやればお前なら出来るという評価でもあったともいえます。

現に成績自体はそれほど悪いものではなかったのです。

そんな僕の高校の評定がこれです。

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ちょっと小さいですかね。

赤い丸印をしていますが、5段階評定で「4.4」です。

みなさんはこれをどう見ますか?

きっとそんなに悪くないと思われると思います。

ほとんどが一夜漬けで何とか間に合わせて乗り切ったテストの結果がほぼそのまま反映されている感じです。

この成績であれば、自分が実際に進学した大学であれば指定校推薦なんかも十分に取れるくらいの成績だったと思います。早慶だって夢ではないという数値だったのかな。

この流れがある意味で僕にとっては不幸だったのかもしれません。

周囲には「内申点が高くていいね」「お前は頭がいいから」と評価され、先生や親には学習面で特別な指導がされることもなく、つまり、ある意味で「これでいいんだよ」と言われ続けてきたわけです。

自分ではやっていないことは分かっているのです。

でも「それで良い」と評価されてしまったら、特に改めることはしませんし、何より、そんなことで何とでもなってしまう勉強なんてホントに価値がないものだとどこかで思っていたのでしょう。

ただし、そんな学習を続けていてもその場その場ではうまく立ち回れるだけで、きちんと学習内容などが蓄積されているわけではないから、広い範囲で作られた実力テストなどでは良い点はとれないわけです。当然ですね。

大学入試もこれでは乗り切れるわけもなく、浪人することになりました。

受験勉強で手にできるものは受験学力だけではない!

しかし、浪人することを決め勉強を始めたときには、予備校の先生などの影響もあり、多少読書をし始めたこともあり、もう一段意識が変わったのです。

そうしてはじめてきちんと学習することに向き合い、単にテストで点が取れる学力だけではなく、その過程で実にさまざまなことを学び、手にしてきました。

そもそも記憶の仕方なり、膨大な量の記憶を計画的に行っていくことについてはまったくの不得意分野でしたから、その点を身に付けられたのは、その後の学習はもちろん、社会に出てからも大いに役立ちました。

あるいは、手に入れた知識と知識、一見バラバラに見えるそれらを自分の中に落とし込み、編集というか加工というか、そうした作業を通してアウトプットするという技術は大学を卒業して現在に至るまで僕の言動の根底にあり、大いに支えてくれる力となっています。

参加した研修やセミナーなどで専門知識の暗記などを要求されても何の不安もなく取り組み、成果を出すことが出来ていました。

大学卒業後、ある企業に就職し、社会人として講師を続けてきましたが、その過程で教育について改めて学びたいと思い、会社を辞め、一念発起して大学院に進学もしましたが、その際にも、この基本的な学びの姿勢、考え方の枠組みが出来ていたから、実に豊かな学びができ、有意義な時間を過ごせたと自分では思っています。

今からまったく別の分野の仕事をするとなっても、何とでもやっていける自信もあります。

学び方も分かっていますし、どんな場面や行動で自分が上手く機能するか、自分がどんな立ち回り方を得意としているのかが分かっていますから、周囲の状況が変わっても対応することがきっとできるでしょう。

そうなれたのは、まさに受験勉強なり学校のテストの勉強を経て、それだけに留まらない学びをひらくことができたからだと心からそう思います。

だから、浪人して、大学受験をして本当に良かった。

というよりも、「ちゃんと」勉強して良かったと思うのです。

学校で、あるいは受験勉強で得た教科などの学習内容は入試などのテストでしか直接は使わない、後々には不要な知識かも知れません。

多くの子ども達やかつて子どもであった方は、1度や2度、こんな思いを抱いたことがあると思います。

「なぜ勉強しなければいけないの?」

「なんでこんなことやらなければいけないの?」

当然と言えば当然の疑問でしょう。

だって、先生たちなどを除いて、周囲の大人の中に、今自分たちが学習しているものをそのまま使っている人なんていないわけですから。

「こんなこと知らなくたっていいじゃん」

そんな気持ちを抱くことは一概に否定はできないことでしょう。

しかし、それを得る過程で自分の行動の特徴とか、記憶の仕方や感覚、メンタルの動きなど、そういう自分自身への気づきが間違いなく得られるのです。

いやそうなるようにこそ勉強はしていくべきなのです。

そうした経験が比較的容易に、リスクもほとんどない状態で、子ども達でもできるのが「勉強」という行為なのです。

受験勉強を超える学習のポイントとは…!?

その気づきは、やはりどこかで自分が追い込まれ、限界と感じるような瞬間を何度か乗り越えた先にやっと自分のコントロール下に入る、そんな感じのものなのでしょう。

だから、その後の人生がどのようなものになろうと、どのようなものにしたいと思っても、必ずぶつかるであろう「自分という壁」を超える方法を、自分自身との対話を、勉強という行為の中でたくさん経験していくことには大きな価値があるのです。

僕の場合はそういった瞬間がたくさんあったのが受験勉強時代、浪人時代なので、その意味であの1年は僕の人生の中でも決して暗黒時代ではありません。

そして、それに気づき、その後自分の学習ももちろんですが、誰かの学習をサポートさせてもらう中で、だからこそ「ちゃんと」した勉強をこれからの子ども達にもしてほしい、と純粋に思うようになったのです。

はじめは自分が通っていた塾で何となくはじめさせてもらった講師。

しかし、やはり多くの人はそのことに気付かないまま苦しい、つらい、でもテストや成績を振りかざされて、それがないとあたかも人生が終わるかのごとくの圧力を感じ、それを仮そめの動機として学習を何とか続けているのです。

一体そんな学習を続けた先にどんな未来が待っているのでしょうか。

もちろん、「だからみんな受験勉強やめよう」って言っているわけではありません。

むしろ「受験勉強だって大切だ」「若いときには受験勉強くらいでしか人生考える瞬間ないのでは」とさえ思っています。

しかし、当然ですが、全員が全員、東大や京大に行こうと言うわけでもありません。そもそも僕自身が東大でも京大でも、ましてやハーバード出身でもありませんから。

そうではなく、「目の前のことをどう価値づけするのか」という視点を持とうってことなのです。

現在は、公教育の場でも、受験産業・教育産業といわれる、予備校や塾、家庭教師などの場でも、結局はテストや入試という1つの価値観によって動いていることが多いでしょう。

何度も言いますが、それが悪いというのではありません。

テストや入試は本来単なるツールですから、それ自体の質の問題はあっても、それが存在することが良い、悪いという話ではないのです。

要は、その使い方が問題だということです。

単に、学力を測る手段、入学者を選抜する手段であったはずのテストや入試が、それ自体が目的と化してしまうことに大きな問題があるわけです。

テストが目的になると、かつての僕のような人間がたくさん出てくることになるでしょう。

テストや成績では良い評価がされている、その意味で(偏差値的に、受験学力的には)優秀とされているが、内実はカラッポにも等しいほど、大切な力が抜け落ちてしまっている状態です。

現に、たとえば、中学受験をした子が、あまりにも一生懸命勉強し過ぎて、志望校に入ったが最後、全然勉強をせずにどんどん落ちぶれてしまった、という「燃え尽き症候群」などはよく耳にする話です。

さらには、大学では、高校までのようなスタイルの学習ではありませんし、単位を取るというだけであれば、いくらでも抜け道のような方法があるものです。

そうなれば、学習することに価値を見出していない学生が何を好き好んで学習するというのでしょうか。

だから、大学生が勉強しないのはある意味当たり前なのです。

そんなのモッタイナイ。

現在は、情報化とか、国際化などといって、さまざまな価値感がうごめいている世の中なので、多くの子ども達、その親御さんがどのように学習をしていけば良いのか、どのように将来を切り拓いていけば良いのか、きっと悩まれていることでしょう。

かつては何となくでも、縛り付けてでも受験勉強をして高校、大学に入ってしまえばそれでどうにでもなった時代が確かにあったわけです。

しかし、現在は違う。

明らかに違う。

でも、「じゃあどうすればいいの?」ってところになかなかいかない。

いけない。

だから、とにかく「高校くらいは行きましょう」「大学くらいは行きましょう」となって、ますます何のためにやっているか分からないような学習を延々くり返していくことになってしまうのです。

本来、向き合い方が違えば、その過程で実にさまざまなことが手にできているはずなのに…。

そんな瞬間を何度も何度も何度も見てきたのです。

そこで自分は講師という立場で何かできる、何かしなければいけないという思い1つでこれまで指導をしてきましたし、仕事を一度辞めてまでも大学院に進学しました。

僕が行きついた答えは本当にシンプルなものです。ごくごく身近なところにあるものです。

自分の学習の経験でも、講師として教える立場になってからの経験でも、それを踏まえ大学院に進学し、学び、研究してきた結果としても、これだけは実感を持って確かなことだと言えます。

それはすでに述べましたが、そのひとつの答えは「何に価値を見出すのか」ということです。

各家庭なり、本人なりが勉強をし、高校大学に進学したとして、その先を「どう生きたいと願うのか」あるいは「今をどう生きたいのか」、この考えがあるかどうかで日々の行動は微妙に、でも確実に変化していきます。

それがないのに、「受験だから」「テストの点をあげなさい」「成績がさがってる」などというピンポイントの現象にとらわれても、何の解決にもならない。

では、無意味に努力させられて入った偏差値の高い学校への進学がどれだけの価値を持っているのだろうか。

大学の進学実績が良いから?

進路指導の面倒見が良い?

僕は県内でも有数の進学校と言われる高校に入学しました。

しかも、お見せしたようにそれなりの評点を取っていました。

だからといって大学進学が容易に済んだわけではありません。

だからといって素晴らしい進路が自ずから切り開けたわけではありません。

もちろん成績がそれなりでしたから、もしかしたら指定校推薦などという選択はあったのかもしれませんが、それをしていたら、きっと多くの大学生と同じように、遊びに遊ぶ4年間、「人生のテーマパーク」として大学生活を謳歌していたことしょう。

そして社会に出て、もしかしたら、どこかのタイミングで「こんなはずじゃなかった」って思っていたことでしょう。

つまり、大学進学やその先の就職などを考えたときには、すでに○○高校出身とか、○○大学出身というだけでは何の意味もないのです。

もちろん伝統校というのは、価値を築いてきた場ですから、そこに属すということに一定の価値はあります。

同級生やOB・OGなどとのコネクションなどは大きな財産と言ってもいいかもしれません。

ですが、それだけに依存して生きていくのでしょうか。

そのような考え方で、その後活躍し続けることができるかどうかは、やはり疑問が残ります。

だからこそ、目の前のこと、それはテストのための勉強であったとしても、あるいは、一見無駄なことのように思えることでも、それに意味づけをし、価値づけをし、自分自身が取り組んでいくことに意味があるのです。

こうした話をすると、一見小難しい、抽象的な話題でもありますから、

「先生、そんなことは、後々大人になってからでいいんじゃないですか!?」

「いまはとにかく学校の勉強、入試の勉強が先ですよ。だって来年受験なんですから」

などというリアクションを頂くこともたくさんあります。

でも、僕はそうは思いません。

結局、目の前の勉強に「テストで点を取る」以外に意味づけや価値づけができないということは、その先勉強という縛りがなくなった瞬間に、それ以上に高度な学びや思考ができるようになる学習ができるはずがないと思うからです。

日々の勉強にこそ、テストのための勉強だからこそ、追い込まれた時、嫌なんだけど何とかしなければいけいないこと、必要だとはわかっていてもつい後回しにしてしまうこと、これらに向き合い、自分を高めることができるのです。

それも、答えが必ずある問題や行きつくべきゴールがはっきりとしている状況でその訓練ができるのです。

これが社会に出て納期が決まった仕事を「いや~、何となく気分が乗らずに、何となくできませんでした」などといって済まされるでしょうか?

もうその時には遅い、ということがあります。

これだけ時代の流れがはやい社会では、余計に単に学校の勉強、テストのための学習ができる、できない以上に、きちんと自分を磨く努力を積み重ねておかなければ、いざという時に対応できないということにもなりかねません。

僕が生徒、学生の頃にもありましたが、「夢を持て」と言う言説。

もちろん目標を持ち、理想を掲げて歩むのは大切なことです。

でも、一方で10代そこそこの人間がはっきりとそれを語れないというのはある意味で仕方がないかもしれません。ついつい、高校で考えよう、大学で考えよう、と先延ばしになってしまうのが多くの現実かもしれません。

だからといって、それは自分を磨く努力を怠る理由にはならないのです。

単に教科の勉強だけをしていればいいわけでもありません。

だから、僕がお伝えしたいのは、その点を今一度見直してみませんか、というただそれだけのことなのです。

将来の大きな夢を語ろう、とか、明確な目標がなければダメだとか、そんな単なる理想を語ることではありません。5年後、10年後を思い描いたって、社会の変化が激しいですから、予想とは全く違う未来がすぐにやってくるかもしれないのです。

だから、そんな先のことを語ることでも、しかし、無意味に目の前にある勉強をただがむしゃらにこなせというのでもない。そこに自分を見出し、価値づけが出来る自分をつくる努力をしようということを言いたいのです。

そして、親御さんはそうした学びができるようにサポートして頂きたいと思うのです。

これからの時代に求められる力 ー 点と点をつなぐ力

具体的は方法を示したいと思いますが、その前にこの動画はご覧になったことがありますか?

かなり有名なものですから、どこかで見聞きしたことがあるかもしれません。まだ、ご覧になっていない方はこの機会にぜひご覧ください。

iPhoneで有名な、かのApple社の創業者、スティーブ・ジョブズ氏のスタンフォード大学でのスピーチです。

スピーチの全文テキストはこちらで参照できます。

【スタンフォード大学ホームページ】

http://news.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505.html

ジョブズ氏のスピーチの中で、最初の話に特に注目して頂きたい。

「about connecting the dots(点と点をつなぐこと)」というストーリーです。

これからは、というより、もうすでに、かつての受験学力のような記憶している知識量、その処理能力だけが高くても何の意味もない時代がきています。

すなわち、MacなどのPCの普及、インターネットの普及、スーパーコンピューターの発達、AI(人工知能)の発達…

これらいわゆるIT技術の核心は、世界を変えています。

もはや知識量や処理能力という点では、人間はコンピューターに勝てないのです。

その時に、僕らは何をすべきか、人間がするべきことって何なのか?

その1つが、まさに「connecting the dots」なのです。

断片的な知識、それぞれの分野なりカテゴリーで区分けして習得してきた知識をつなげようという視点。言いかえれば「クリエイティブな視点」を持つことを同じだと思います。

ジョブズ氏の話は多少異なる趣旨かも知れませんが、しかし、例えば、こと学習に関しても、現在の学習などは教科毎に区分けされて学びます。しかし、教科の枠は後々人間が勝手に区分けしているにすぎません。

実際には、自然現象をひとつ捉えるのだとしても、例えば気候や天気などは、理科でも社会(地理)でも同じような話題が出てきます。さらには、気候や地理などの話から、人間の文化や外交などの政治的な話、かつての歴史的事件など、さまざまなことが紐づいており、そういった視点で理解した方が良いもの、あるいは、そうすることでより面白味が出てくることがたくさんあります。

しかし、学校ではそうした学びをするチャンスはなかなかない。

それだけの指導ができる教員がいないのかもしれない。

かつて導入された「総合的な学習の時間」には、その意味で大いに可能性を感じていました。一時期は「ゆとり教育批判」の槍玉にされていましたが、最近はまた見直されてきているようです。

だからこそ、僕がここ数年来ずっと提唱してきているのは、

こうした「総合的な学習をしていこう」ということなのです。

さらに、もうひとつ。

僕自身がここまで学習を続けてこれた理由は、そもそも「知りたい」とか「なぜだろう」という小さい頃には多くの人が発現していた「知的好奇心」が大元にあります。

さらに、それを知る過程や、考える過程には、必ず言語が関係しています。

関係しているというか、言語によってそれらの行為が行われているわけです。

だから、僕にとって自分自身や世界のことを知りたいと思ったから「哲学科」に引かれたわけですし、教育の根本というところを勉強したいと思ったので、言葉を扱う「国語教育」に進学していったわけです。

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だから、僕自身が行きつき、でも、多くの人にも当てはまる答えは、

ことばのちからを磨き、自分で考え、その考えを表現できる力を磨こう

ということです。

これは、将来どんな専門領域の学びをするにしろ、現在多様な教科を学習しているにしろ、多く場合が日本語で書かれたテキストなり、日本語を介して学習します。

ですから、そもそも日本語の理解力なり、活用力というのが弱ければ、十分な学習成果が得られないのは当然です。

もちろん、世間でよく聞く「国語ができればすべてができる」という逆の論理は必ずしも成り立ちません。

日本の能力が高くても、その他の専門領域にはそこでの知識やルールが必要ですから、それを身に付けなければ、その領域で成果が出せるはずはありません。

しかし、ことば(私たちの場合は日本語)というものは、人間の文化的、社会的な生活の根幹に関わるものですから、単なる教科の1つとして扱うには本来は大き過ぎる存在です。

だから、学校の教科とかテストや受験とか、そんなこと度外視にして、ことば自体を学び、ことばを使って何かを考え、表現するという訓練を積み重ねるべきなのです。

そこで僕自身は、そうした学びが出来る場所や授業というものをつくりたいと思い、様々な場面で実施させてもらってきています。

実際、まだまだ十分に理解を得るには至っていないという場面が多くあります。

「大事なのは分かりますが、とはいっても先生、学校のテストが…。成績が…。」

もちろん、それも分かります。

しかし、どうでしょうか。

お父さん、お母さん自身が常に学校のテストで満点を取り、成績はオール5で、偏差値ヒエラルキーの頂点に君臨し、そうしなければ将来がないという考えをお持ちなのでしょうか。

学校の世間的な評価はあるでしょう。

でも、その評価の多少の違いで人生が180度変わるのでしょうか。

高校でいえば1つ2つランクが違うだけで、その先の人生が根本から変わる何かがあるのでしょうか。

僕はそうは思えません。

だって極論をいえば、自分の人生は「自分がどう考え、何に価値を見いだし、何を選ぶか」にかかっているだけなのですから。

でも、僕がお伝えしていることは、それを経れば人生が根本から変わるかもしれないということなのです。

だって「自分がどう考え、何に価値を見いだし、何を選ぶか」について、その言語表現活動をくり返し訓練していくことだからです。

ただ言われるがままのことを何となくこなして、何となくいきついた未来と、たとえ結果は同じだったとしても、自分で考え、判断し、選択した未来と、どちらが充実感、満足感、幸福感を得られるでしょうか。

もちろん、無我夢中で周りに叱咤激励され、勉強をこなし、高校、大学に進学し、特に勉強に価値を見出せずに就職活動をし、社会人となり、一定の収入を得て、それなりの生活を営んでいく…

それに価値がないというわけではありません。

それを自分で選ぶかどうかということ。

だからこそ価値観の問題なのです。

目の前のことにでも、たとえ受験勉強にでもどう意味づけし、価値づけするのか、そこにこそ周囲の大人は注力し、時に叱り、見守り、いずれ自分の足で立ち、自分を律する大人へと成長させる…。

それが大人のやるべきことではないでしょうか。

だから僕は、教科の学習ももちろん見ることはできますし、現に指導していますが、それと同等かそれ以上に、そうした価値観を醸成するような学びをともにしたいと強く思っているのです。

その1つの具体的な場が、作文や小論文などの言語表現活動なのです。

これをここまでお読み頂いた方に中に、僕の考えに賛同や共感をして下さる方かも知れませんね。

そうであれば、ぜひお子様がいる場合にはお子様のことも今一度考える機会を取って頂き、作文なども単に学校の宿題が出ているとかいないとか、そのような次元で扱わず、今後の人生を左右する学習の1つとして捉え直して頂きたいと思います。

僕が講師を続けている本当の理由

作文については、その基本的な書き方や作業の進め方、その周辺の考え方などを含めて解説した無料講座を公開しています。ぜひご活用ください。

また、無料メルマガ講座として同様の講座を配信しています。こちらでは、ある1つのテーマについて自分の意見を書くというスタイルの作文(意見文)をモデルにして解説していますが、この講座では、講座内で扱っているテーマについての意見文であれば、無料で添削指導も致します。

メールでのやりとりが基本となりますが、完全無料で基本講座と添削指導が受けられますので、少しでも興味・関心がある方は、ぜひともお気軽にご参加ください。

ただし、添削指導に関しては、無料とはいえ、お引き受けする以上手抜きをするわけにはいきません。

これは僕の講師としてのプライドでもあります。

ですから、人数は限定させて頂くことになります。

実際に教室で教えたり、出張授業のような形で複数の塾にもお邪魔しているので、おそらく月に10名程度が限界かと思います。

メール登録をして頂いた方の中から、さらに添削指導希望の方にはご案内をしますので、そちらからお返事を頂いた方の先着順で決めさせて頂きます。

メール講座についてはこちらをご覧ください。

【作文・小論文講座】詳細ページ

メール登録者の方には、学習相談等のご質問にも随時お答えしていきますので、現在の学習に不安や将来、進路について不安がある方はぜひともご参加ください。

ともに子ども達の学びを、将来を考え、より良いものにしていきませんか?

みなさんは、まずはそれぞれわが子のこと、ご自分のことをお考え頂ければ良いと思います。

ひいてはそれがより良い社会の創造につながりますから。

つまり、僕という点にあなたがつながり、同じようにつながるたくさんの点が1つの線になったり、やがて網目のようなつながりとなっていきます。そうして社会ができ、同じように高い価値観を持ち物同士がつながることで、より良い社会が築けるようになるのです。

より良い社会や価値観の集合体は、当然それぞれの点にも還元されます。

世知辛い、荒んだ人間関係では「人と離れること」、「関係を立つこと」、「警戒すること」、そんなネガティブな言動ばかりになります。

しかし、信頼できる価値観で結ばれた関係では、もっと明るく、楽しい、充実したハッピーな生き方がしやすくなるはずです。

壮大な話で笑われるかもしれませんが、何を隠そう、それこそが【僕が講師やっている理由】なのです。

最後までお読み頂きありがとうございました。

他のページも気合いをいれて、信念込めて書いていますので、ご覧頂ければ幸いです。

よろしくお願いします。

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